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help リーダーに追加 RSS 日本における脳死臓器移植問題について

<<   作成日時 : 2005/03/26 07:38   >>

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誰が死を望むものか・・」について
日本における脳死臓器移植問題「患者の生き方」より

 日本における脳死による臓器移植の幕開けは比較的早く、南アフリカで1967年に世界初の心臓移植が行われた翌年、1968年札幌医大の和田教授により心臓移植が行われました。しかし、この件では多数の問題点が指摘され、その後の脳死臓器移植は事実上凍結された状態になりました。脳死の判定問題や人の死と認めるかについて各界より意見が出され、議論が続きました。
ここでは、日本における脳死臓器移植の問題について述べます。

1) 日本における脳死問題
 近代医学は、人体は部品の組み合わせでできているという要素還元主義の学問体系です。大学に入学後、欧米の医学や科学の考え方を学んできた私は、脳死体から臓器移植することを当然のように受け止め、疑うことはありませんでした。また、内科医として受持ちの患者さん、すなわちレシピエント(提供を受ける者)の側に立って考えやすく、日本における臓器移植を何とか推進したいとの立場にいました。
その頃の私は、脳死の問題や臓器移植に伴いおきる問題について深く考えていませんでした。どのような状況でドナー(臓器提供者)やレシピエントが選択され、移植が行われているかなど具体的なことをほとんど知らず、考えてもいませんでした。しかし、私が父より引き継いで信仰する神道の大本では、宗教上脳死による臓器移植が間違った行為であるとの立場を鮮明にし、全国に反対運動を展開しはじめました。
その後、脳死臓器移植の問題について自分で調べ、考える機会をもちました。そして、脳死からの臓器移植は避けるべき医療行為であるとの結論に達しました。

2)家族にとっての死の受容
 医療に関わる者として、私が一番問題に感じるのは、死の受容のできていない家族に臓器提供を迫るという構図です。脳死と診断されドナーとなる対象者の多くは20代や30代の若者です。しかも、その日まで健康であったのに、事故や脳出血などのため急に病院に運ばれた人達です。危篤状態を突然知らされた家族の立場に立つと、脳死と告げ臓器提供を要請することは困難です。
 進行がんのため、数ヶ月から年単位で死に至る場合でも、死の受容は患者本人だけでなく家族にとっても難しいのです。がんの発症が急であり、しかも患者さんが若者であれば、患者さんやその家族に対してどのように伝えるのか悩まされます。少しでも心理的なショックを和らげるためにと、時間をとり段階的に伝える工夫をします。

がんで亡くなった患者さんでも、その診療の初期の段階に、医療者の手抜きや過誤があれば、残された家族はその後3年や5年という長時間が経っても、まだ悔みきれないと打ち明けられる事もあります。

 Aさんは脳出血のためほとんど植物状態でした。目で反応を示すことさえできず、意思の疎通はほとんどできなかったのですが、呼びかけにちょっとした反応でもあれば、その夫人は一喜一憂されていました。何年間も手あつく看病を続けられ、Aさんに褥瘡(とこずれ)もつくらず、つややかな肌を維持していました。時々状態が悪くなり、何度か入退院を繰り返していました。どうしてそこまでお世話をできるのかと私は感心していました。
Aさんが亡くなって1年後に、突然その夫人からお手紙をいただきました。あんなに手を尽くして看病されたにもかかわらず、生きている時にこんなこと、あんなことことをもっとしてあげられたのではないかと、今も毎日考えているというのです。

 残される家族にとって、死の受容はそれ程時間を必要とする大切なことです。突然事故にあった若者の家族に脳死と告げ、数日の間に臓器提供を決断させるということは何とも残酷な行為です。しかも、その死の判定にも、様々な問題が残されているのです。

3)死の判定基準について
 日本では脳死は 「全脳の不可逆的な機能の喪失」 と定義されています。これは多くの欧米諸国の診断とほぼ同じです。機能とは、はたらきであり、機能的の反対語が器質的です。物質レベルの変化として確認されると器質的変化と表現されます。

昔から死の瞬間は、心臓や呼吸の機能の停止で判断されてきました。心臓も呼吸もその機能の停止が誰の目にも明らかであり、しかも、心臓の停止が10分も続けば、心臓もふくめた主要臓器の機能が回復することはありません。それでも判定が難しい場合があったため、死と判定された後に患者さんが目をさましたなどの話が残っているのです。

 脳死の判定の問題は、脳の機能の喪失が不可逆的であることを判定できるかどうかにあります。脳死判定に使われる検査は全て機能の検査です。機能の検査をいくら組み合わせても、機能の喪失の不可逆性を判定することは、論理的にもできません。なぜなら、不可逆的とは時間の概念を含むからです。
そのために、日本の判定基準には6時間後に再判定するという時間の要素が付け加えられています。ところが、6時間で十分かどうかは、経験的なものであり、実際には6時間後の判定で機能が喪失していても、その後に回復する例もあるのです。そのため、24時間後に再判定する国もあるのです。

 器質的な変化、すなわち物質レベルでの変化(細胞の壊死)、があれば機能の喪失が不可逆的と判定できます。しかし、それは死の瞬間でなく死後の変化を見ているのです。死の瞬間を、物質を対象とする科学で、とらえることは難しいのです。科学は、生命によっておきる現象を解明してきましたが,生命そのものを解明したわけではありません。

 脳幹に呼吸の中枢があり、脳幹が機能喪失すると生物は生きられないとの意見もあります。しかし、心臓の拍動のリズムが保てないときに、ペースメーカーを入れて生命を維持します。同様に脳幹死となっても、呼吸のペースメーカーにより呼吸を調整することが、可能となるかもしれません。

また、脳幹死になると1週間程の間に心臓死にいたるとされていましたが、抗利尿ホルモン、カテコラミン投与、輸液などを使用する医療技術の進歩により数ヶ月単位での延命が可能となっています。すなわち、脳幹の死がすぐに個体の死につながるわけではないのです。

感じる考えるなど大脳機能の喪失はわからない
 脳幹死だけで大脳が機能している状態では、その人は何かを感じたり、考えている可能性があります。そのような時期に、臓器の摘出が許されるでしょうか。ところが、脳死判定において大脳の機能を評価しているのは脳波検査だけです。心臓の機能は血液を送り出すという物理的なことですから、容易に観測できます。それに対して、脳で感じること、考えることは、鋭敏に検査でとらえる事はできません。
脳死の判定に使用される基準は、反射の喪失、脳波の平坦化も含めて、麻酔を深くかければ全ての項目が満たされます。それらは麻酔を切れば元に戻る(可逆的)変化であり、現在脳死の判定に使われる基準が、機能の喪失の不可逆性を証明するものではないことはあきらかです。

 機能の不可逆性を言うためには、機能の測定技術と救命技術のレベルが一定の下との条件が必要です。そして、新しい技術が加わると、その基準は動きます。例えば、脳低体温療法などの新しい技術が開発され、不可逆的状態であると判断されていた脳出血の例が、治療により意識が戻って退院するところまで進歩しています。そうなれば当然診断基準を変えられなければなりません。しかし、ころころと変わる基準を死の診断基準とすべきではありません。

このような問題が残されているにもかかわらず、脳死を死と診断しようとするのは、移植を可能とする臓器の質と量の確保が前提となっているためです。

心臓死
 心臓の機能の停止は、血流の停止として物質レベルで捉えられます。全身の血流の停止は、分単位で脳、心臓自身、肺、腎臓などの主要な臓器の不可逆的な機能の喪失をきたします。その後も、髪の毛とかヒゲなどの細胞は生きており死後にものびます。しかし、個体の死は、ある一つの細胞や特定の臓器の機能停止としてとらえるべきものでなく、個体全体の死のプロセスの中で、最も重要な部分をとらえるべきででしょう。それが、心臓の停止なのです。

人の死は、数多くの臓器の一つである脳の機能停止としてとらえるべきでなく、全身への血液の供給をになう心臓の機能の停止をもって死とするべきなのです。

4)移植に伴う種々の問題 

自殺の自己決定権
 現在の脳死の判定は個体の死ではないけれども、本人の意思あるいは同意があれば、臓器を提供してもよいのではないかとの意見があります。
しかし、脳死が個体の死ではないとすれば、そこからの臓器提供は、死にゆく自分の肉体に早々に見切りをつけ、他人にゆずることになり、自殺に相当する決定になります。そして、脳死臓器移植は、社会がシステムとして自殺を幇助することになります。

個人の自己決定による自殺はともかくとしても、それを社会的にシステムとして容認するか否かでは、大きな隔たりがあります。
 また、自己決定権が尊重される時代ですが、それには、あくまでも偏りのない情報の提供が前提となります。脳死後にドナーとなろうとする人が、どれだけ正確に脳死に関する知識や情報を得ているのでしょうか。
脳死の判定は、まだ生かされる可能性のある生命を、早く見捨てているといえないでしょうか。

子供の自己決定権と家族のみの同意
子供の臓器移植がすすまないために子供にも自己決定権を認め、脳死の判定をすすめようとする案も出ています。これも子供に自己決定をせまることになりかねませんし、一方的な情報のみが流されてドナーカードに署名する危険性もあります。
今後、当事者の署名がなくても家族の承諾のみでドナーとする方向へ進もうともしていますが、脳死になった際に、家族に突然重大な決断がせまられることになります。

治療をうける優先権
 脳死臓器移植では, 脳死を対象とするため絶対的な臓器の不足があります。従って、誰に優先して臓器を提供するかが社会的な問題となります。このような判断をどうやって行うかの社会的合意もできていないと思います。このような判断を必要とする医療を、戦争や大地震の緊急時ではなく、日常の医療に持ち込むことは、医療そのものをゆがめてしまうことを心配します。
そもそも、脳死の人はもうすぐ死にそうな人であり、臓器を受ける人は移植が成功すれば社会に役立つ人である。従って、脳死者を早くみすてて、レシピエントに臓器を提供しようという、人と人との命の価値を天秤にかける操作であることが、最大の問題なのです。

終わりに
 脳死による臓器移植は様々な問題が複雑にからみあって内在しています。そしてそれらは一つ一つが難しい問題です。私なりに整理すれば、
1)死の受容、
2)脳死の判定の難しさ、
3)脳死は人の個体死ではないこと、
4)自殺をする自己決定権を社会として認めるか、
5)治療を受ける優先権
の5点になります。
これらの点に関する社会的合意がどこまでできているのかが問題なのです。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
判決に対する素人のとりとめない感想にTB頂き恐縮です。
加藤様の説明を拝読すると、死の定義がいかに困難であるか
曖昧な定義のまま、次の作業に移ることの問題、危険、悲哀を
深く感じずにはいられません。

ただ、自身の死と家族の死をまったく同じ目で見ることは
できそうにありません。
自身の場合はひたすら家族の負担が軽減されるよう選択しそうです。
喪失悲哀や看取りきる納得感を思えば、矛盾もありましょうが・・。
body&soulW
2005/03/26 08:57
自分の死と家族の死と他人の死は、それぞれ違うのはしようがないと思います。
それでも、家族とか他人の立場にたって自分の死を考えることも必要なのだと思います。
眞三
2005/03/29 21:17

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