医療における独立自尊とは

「患者の生き方」より

医療における独立自尊とは

 私が外来で診ている慢性の肝臓病の患者さんは、その多くが高齢者です。日本のお任せ文化に親しんできた人達です。このような人に対して、いきなり治療法の選択をと迫っても、戸惑われることも少なくありません。
 しかも、現実の問題として、患者さんに提供すべき情報、治療法を選択するための根拠となる情報が、施設ごとに準備できているわけではありません。論文に書かれている治療法の成績は、報告施設のものであり、別の施設での治療の成績は異なっていて当然です。Aの治療が得意な施設もあれば、Bの治療を得意とし、Aの治療には習熟していない施設もあります。
 ところが、あらゆる病気に対して、各施設が科学的評価に耐えるだけの十分な症例数やデータをもつわけではありません。また、同じ病名の腫瘍でも、腫瘍の部位や性質によって治療成績は異なります。

 肝がんを例に取り上げます。その治療の選択のためには、肝炎ウイルス感染の有無、合併する肝硬変の進行度、腫瘍の大きさ・数・部位・血流状態、超音波での見え方、針が刺しやすい部位か否かなど、いくつもの場合分けが必要です。ところが場合分けを続けると、それぞれのグループの症例数は限りなく小さくなります。その結果、統計処理によりどの治療法が優れているかを示すためには、各群に相当数の症例が必要となります。
 しかも、それぞれの因子は、必ずしも独立したものではなく、互いが影響することもあります。さらに、PEIT(エタノール局注療法)やRF(ラジオ波凝固療法)などの治療では、施行する医師の腕や意気込みによっても成績は異なります。したがって、全国的に集計を行い、数を増やして統計処理すればよいという、単純な問題ではありません。

「先生、そんなことを言われても、結局私にはどの方法がよいのかよくわかりません。先生が一番良いと思う方法でやってくれれば、私はそれでよいのですが。」
私が病気やその治療について、一生懸命に説明をしていた時の、患者さんからの返事です。説明の仕方がよくないとの批判をうけるかもしれませんが、いくら解り易く話したとしても、このように答える患者さんはいます。

 ある老婦人は、外来で涙ぐみながら私に打ち明けます。Z病院で上部消化管の内視鏡検査を受けその結果を聞きにいったところ、外来診察室で担当医から、いきなり、
「あなたの食道は、がんになっていることが判りました。入院して手術するのも一つの方法です。高齢ですから積極的な治療はしないで、このまま外来で経過をみるのも選択枝のひとつです。入院して治療するか、あるいはこのまま外来で経過をみるのか、あなたが決めて下さい。」と言われ、さあ、どうするとばかりに迫られたのです。突然がんの告知を受けただけでなく、治療の自己決定まで一気に外来でせまられた患者さんは、どうしてよいのかわからず途方にくれています。

 訴訟の多い国、米国からやって来たインフォームドコンセントは、しばしば医師の裁量権と患者の自己決定権の対立する構図の中で語られます。医師にはプロフェッショナルとして治療を選択し診療する裁量権があり、患者さんには自分が受ける治療を選択し決断する自己決定権があり、その両者の権利が対立しせめぎ合いです。
 自己決定権は、人権運動の一環の中で、弱い立場にある患者が、強者の医師より勝ち取っていくものとして語られます。しかし、その結果、医師は過剰に防衛的となり、それなら患者自身に全てを選択させ責任をとらせればよいと、訴訟に負けないための手段としてインフォームドコンセントをすすめようと身構えるのです。

 このような対立する関係性は、両者に不幸をもたらします。私は、医師と患者の対立の中で考えるべきではないと考えます。温暖な気候で豊かな自然や風土に恵まれ育まれた日本の文化は、穏やかな精神が培われ、競争原理ではなく社会の中での全体の和を重んじる共生の思想が根底にあります。和の中に信頼関係が育まます。
和の精神からインフォームドコンセントを考えれば、患者と医師との関係性は協働作業となり、よりよい医療が可能となります。

 特に高齢の患者さんでは、治療法に関して自己決定するというより、医師とともに考え、最終的に患者さんの生き方を治療法に反映することが望まれるのです。
人生で何か困難に出会った時、対処の方法は人によって異なります。少々危険をおかしても、将来のため安全を第一と考え、早め早めに積極的に対処する人もいれば、がまんを重ねてじっと耐え、いよいよ危険になってから対処する人もいます。自分の生き方を医療の決定に反映することが大切なのであり、病気や治療法自体を熟知し選択することは、必ずしも必要ではありません。医師の助言のもとに、患者を中心とした治療の選択をすればよいのです。
もっとも、たとえ高齢者であっても自己決定を強く望む人、欧米文明になじんで育ってきた世代では、良質な医療情報がより積極的に提供され、患者の決定権が優先するべきです。

 患者さんの自律性を重んじ、権威主義を廃し、個人の自由と独立を愛する人のための情報提供を、大切にしたいと思います。本書の表題「患者学のすすめ」は、福澤諭吉の「学問のすゝめ」の根底に流れる“独立自尊”の精神を、医療の場に迎えたいと考えてつけたものです。インフォームドコンセントが注目されるのは、“独立自尊”の精神がようやく医療の世界にたどりついたことの現われです。その意味で、最高裁の判決が下った2000年が、医療における明治元年にあたるのだ、と私は考えます。


福澤諭吉 学問のすゝめ 3編 一身独立して一国独立する事
「・・・・独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う。自ら物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵に依らざる独立なり。自ら心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財に依らざる独立なり。人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがる人のみにて、これを引受くる者はなかるべし。これをたとえば盲人の行列に手引なきが如し、甚だ不都合ならずや。ある人いわく、民はこれを由らしむべしこれを知らしむべからず、世の中は目くら千人目あき千人なれば、智者上に在って諸民を支配し上の意に従わしめて可なりと。この議論は孔子様の流儀なれども、その実は大いに非なり。(中略)
・・・・・・・・・・・・・・・・
右三箇条に言うところは、皆、人民に独立の心なきより生ずる災害なり。今の世に生れいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わず先ず自己の独立をはかり、余力あらば他人の独立を助け成すべし。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商共に独立して国を守らざるべからず。概してこれを言えば、人を束縛して 独り心配を求むるより、人を放ちて共に苦楽を与にするに若かざるなり。」
(明治六年十二月出版)

独立自尊:漢文の素養のない私は、“自尊”という言葉になにか尊大で傲慢な印象をもち、違和感を覚えていました。ところがある日、その英語訳がIndependence and self-confidence であることを教えられ、その誤解が解けた気がしました。“自尊”とは、志を高くすることであり、“浩然の気”に通じる言葉です。他人に頼らず独立し自由であり、志を高く生きるという意味なのです。

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この記事へのコメント

邦之
2005年03月19日 22:06
今日の産経新聞に、遺伝子の村上和雄先生のコラムがありました。横田早苗さんはあんなにストレスいっぱいのはずなのにどうして悪い遺伝子がオンにならないのだろうかと。そして「たとえ悪いストレスに曝されようとも、高い志があれば良い遺伝子がオンになることを教えられた。」と書いておられます。

癌もきっとそう言うことが大事なんじゃないかなぁ。P53タンパクがどんどん出るように遺伝子が修復される、そのスイッチがオンになる、そんな患者の環境。17番染色体のアデニンとグアニンのミスマッチによる乳癌遺伝子だって修復遺伝子がオンするのかも知れない。

そう言う意味で考えたら、医療に必要な、それより療養生活に必要な、「貴いこ志」って何だろう?ボクは苦しいときに、なにか高い志になれるんだろうか?

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