2005年03月24日 紀行文・旅行案内? 健康 本 患者学 「患者の生き方」を出版して間もない頃、どのように世の中に受けとめられるかと気になり、googleで検索してみた。すると、都内の図書館に購入されていることがわかった。ところが、その本の分類場所が、紀行文・旅行案内になっている。何故だろうと思ったが、前後を見ると、すぐに理解できた。そこには、地球の歩き方 や 紀州を行く などと並んでいる。どうも、「患者の行き方」 と勘違いしたらしい。図書館の分類も所詮こんなものであることを知った。患者の生き方―よりよい医療と人生の「患者学」のすすめ
雪ウサギ 2005年03月27日 01:39 ニノチカさん、何て素敵なコメントなのでしょう!上記の出来事は一つの示唆か啓示と考えるとすごくワクワクするものになりませんか。「医療のより良い方向」という目的に向かって「ロード・オブ・ザ・リングス」の様に、旅の仲間達が集まって、オデゥッセィのような放浪冒険の旅に出るのだ!と考えると楽しいです。一人ひとりが騎士で騎士団となって進んで行くなんていうのも又夢がありますね。もし一人ヘボナイト(騎士)がいたとすればそれは・・ムムム・・誰でしょう?
はとのたんめい 2005年03月27日 03:09 知らず、生れ死ぬる人、いずかたより来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。
雪ウサギ 2005年03月28日 01:16 眞三先生御用達の吟遊詩人(お名前がちと気になりますが。)のおっしゃりたいこと、何となくわかります。かつて悩んだテーマです。子どものころ、絶対自分はこの地球に島流しか留学かわからないが、他の星から来たに違いないと思っていたことがありました。あの時私の魂は本当にその星の方に飛んでいて、自分が一瞬何処にいるかわからなくなり、2階の窓から屋根に降りていたのですが、転落しそうになったことがあります。自分はいずれどこかに帰るにちがいない。広大な宇宙からみれば今この時は一瞬の夢にちがいないという思いは中学生の頃からありました。
雪ウサギ 2005年03月28日 01:18 前置きが長くなりました。眞三先生、出会いを感謝しているというお言葉、最高の言葉として受けとらせていただきます。私の中では「あなたに会えて良かった」と言っていただけることが最高の栄誉だと思っているのです。こちらこそ、そう言っていただけたことを深く感謝いたします。そこで、ひとつ考えてしまうのです。ブログでは、顔を見たことも声を聞いたこともない同士でも、やはり「出会い」というのでしょうか?確かにわずかですけれど、ブログは時空を超えた通信手段ですものね。これって魂が飛ぶのと同じかもしれないですね。するとブログの文章には、その人の魂の相似形が様々な大きさで詰まっているのかもしれませんね。たとえ毎日顔を会わせていても「出会う」とは言わない人もいれば、たった一度だけでも「出会う」といえる人もいる。やはりこれは魂のレベルのことなのですね。だとしたら、とてもうれしく思います。(長い文章になってしまいました。お許しください。)
水井 2005年03月28日 10:25 鴨長明の方丈記・・へと発展していますか?庭先にみる花は客感的にみる場合も変化していますが、ここでは、変化であったもいわゆる無常(=常ならず)ではないですよね。私達の生からの開心によって意味づけられると庭先の花の移ろいに無常を感じるのでしょうね。その生滅変化が必然的であるものにおいて無常と感じるのでしょうか。しかも、それは自然必然であるというより、運命必然ということになり・・、必然的なものが同時に偶発的であり、偶発的なものが同時に必然であるとなり・・、こうなると運命あるいは宿命といわれる必然性になってくる?ぐるぐる思考になっちゃいますね。てつがく?宗教概念?みたくなってきました。シンプルに「あえてよかった。」でいいんですよね。
眞三 2005年03月28日 11:01 ちょっとしたパロディです。余り深く考えないでください。これほどの無常観を持ちあわせているわけではありません。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶ うたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」(方丈記 鴨長明)
眞三 2005年03月28日 11:57 でもやはり素晴らしいイントロですね。http://deep-impulse.de-blog.jp/deep_impulse/2005/03/post_10.html
雪ウサギ 2005年03月28日 12:07 ウワーン! くやしいわぁ! はとのって誰だったかな?とまじめに考えてしまいましたよ。いっぱい食わされましたね。でも「はたのめんたい」は知りませんでした。いつも他のを買っていましたから。このお返しはいつか・・・・。あ、出かけなければなりません。失礼しまーす。
雪ウサギ 2005年04月01日 23:24 私には軽い赤面症の気があります。若い時には「カワイイ!」なんていわれて済んでいましたが、いい歳をしてはそうもいかず、人間が出来ていないのではないかと内心密かに悩んでおりました。呼吸法を試したりしてそれなりに大丈夫になってきましたが、今でも虚を突かれると赤面することがあります。しかし前よりはずっと精神的に楽になっています。それは何年か前にある詩に出会ってからです。その日、緊張と気落ちを紛らわせる為に書店で本を読んでいる時にその詩を見つけたのです。読んでいて涙がポトポト落ちてしまいました。(おかげでその本は買う羽目になりました。)この詩は今でも高校生に人気があると聞きます。(私の精神年齢は高校生並のようです。)いつかお嬢さん達の集まりで披露したことがあります。「すれっからしって何ですか?」と聞かれてカクッとなったことがあります。しかしぜひこれから巣立つお嬢さん達にこの詩を読んでいただきたいと思うのです。それでこの詩を、教授にご就任なさる加藤先生に餞(はなむけ)としてお贈りしたいと思います。(縁側の場所を大幅に取ることをお許しください。)
雪ウサギ 2005年04月01日 23:27 汲む -Y・Yに-大人になるというのはすれっからしになることだと思い込んでいた少女の頃立居振舞の美しい発音の正確な素敵な女のひとと会いましたそのひとは私の背のびを見すかしたようになにげない話に言いました初々しさが大切なの人に対しても世の中に対しても人を人とも思わなくなったとき堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
雪ウサギ 2005年04月01日 23:28 私はどきんとしそして深く悟りました大人になってもどぎまきしたっていいんだなぎこちない挨拶 醜く赤くなる失語症 なめらかでないしぐさ子供の悪態にさえ傷ついてしまう頼りない生牡蠣のような感受性それらを鍛える必要は少しもなかったのだな年老いても咲きたての薔薇 柔らかく外にむかってひらかれるのこそ難しいあらゆる仕事すべてのいい仕事の核には震える弱いアンテナがかくされている きっと・・・・わたしもかつてのあの人と同じくらいの年になりましたたちかえり今もときどきその意味をひっそり汲むことがあるのです ( 茨木のり子 )
水井 2005年04月02日 10:28 茨木のり子さんの詩はいくつか知っていますが、この詩は初めて知りました。とても胸に浸み込む詩ですね。「わたしを束ねないで」「わたしが一番きれいだったとき」「寄りかからず」など、女性ならではの想いが凝縮されていてハッとさせられますね。
雪ウサギ 2005年04月03日 17:28 うわぁ~、水井さんも茨木さんの詩をご存じだったのですか?(ウレシイナ!)女性にとっては「ソウダソウダ、よく言ってくれた!」と自分達の気持ちを代弁してくれているという気持ちが強いのです。私はさらに彼女の詩にある「まるで少年のような腕白さ」も結構好きです。「自分の感受性くらい」も大好きです。自分が幼い日に感じてはいたけれど、表現できなかったものを彼女が見事に表現しているのに驚いたことがあります。「みずうみ」、「小さな娘が思ったこと」などです。表現はできなかったけれど、少女というものは魅力のエッセンスともいうべきものを、本能的に嗅ぎ分けるものなのだということを改めて認識した詩です。
雪ウサギ 2005年04月03日 17:32 ところで先の「汲む」という詩は、地方から一人で都会に出てきている学生さんや、対人関係に悩んでいる人、あるいはどんな大人になってよいか悩んでいる人にひとつの指標や救いを与えるものになればいいと思っています。「こういう考え方もあるのだよ。」というように。無理に大人ぶるよりも、どうせ成るのなら本物の大人を目指してほしいと思うのです。医療関係者の方には特に男性でも女性でもこの詩を読んで頂きたいと思っています。(別に声に出して読まなくても、配って頂いてもよいのですけれど。)ところで、眞三先生にもこの詩が気に入っていただけたけると、とてもうれしいのですが・・・。
この記事へのコメント
上記の出来事は一つの示唆か啓示と考えるとすごくワクワクするものになりませんか。「医療のより良い方向」という目的に向かって「ロード・オブ・ザ・リングス」の様に、旅の仲間達が集まって、オデゥッセィのような放浪冒険の旅に出るのだ!と考えると楽しいです。一人ひとりが騎士で騎士団となって進んで行くなんていうのも又夢がありますね。もし一人ヘボナイト(騎士)がいたとすればそれは・・ムムム・・誰でしょう?
また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その主と栖と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。
コメントを残してくれるお二人には、大きな深い河の中での不思議な出会いを感謝しています。
自分はいずれどこかに帰るにちがいない。広大な宇宙からみれば今この時は一瞬の夢にちがいないという思いは中学生の頃からありました。
眞三先生、出会いを感謝しているというお言葉、最高の言葉として受けとらせていただきます。私の中では「あなたに会えて良かった」と言っていただけることが最高の栄誉だと思っているのです。こちらこそ、そう言っていただけたことを深く感謝いたします。
そこで、ひとつ考えてしまうのです。ブログでは、顔を見たことも声を聞いたこともない同士でも、やはり「出会い」というのでしょうか?確かにわずかですけれど、ブログは時空を超えた通信手段ですものね。これって魂が飛ぶのと同じかもしれないですね。するとブログの文章には、その人の魂の相似形が様々な大きさで詰まっているのかもしれませんね。たとえ毎日顔を会わせていても「出会う」とは言わない人もいれば、たった一度だけでも「出会う」といえる人もいる。やはりこれは魂のレベルのことなのですね。だとしたら、とてもうれしく思います。(長い文章になってしまいました。お許しください。)
庭先にみる花は客感的にみる場合も変化していますが、ここでは、変化であったもいわゆる無常(=常ならず)ではないですよね。
私達の生からの開心によって意味づけられると庭先の花の移ろいに無常を感じるのでしょうね。その生滅変化が必然的であるものにおいて無常と感じるのでしょうか。しかも、それは自然必然であるというより、運命必然
ということになり・・、必然的なものが同時に偶発的であり、偶発的なものが同時に必然であるとなり・・、こうなると運命あるいは宿命といわれる必然性になってくる?ぐるぐる思考になっちゃいますね。てつがく?宗教概念?みたくなってきました。シンプルに「あえてよかった。」でいいんですよね。
かものちょうめい~~~はとのめんたい?!!
おそれいりました!!
はとのたんめい・・です。。。
「はとのめんたい」は、博多のめんたいでした。
ごめんなさい。わたしの好物です。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶ うたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」(方丈記 鴨長明)
http://deep-impulse.de-blog.jp/deep_impulse/2005/03/post_10.html
その日、緊張と気落ちを紛らわせる為に書店で本を読んでいる時にその詩を見つけたのです。読んでいて涙がポトポト落ちてしまいました。(おかげでその本は買う羽目になりました。)
この詩は今でも高校生に人気があると聞きます。(私の精神年齢は高校生並のようです。)いつかお嬢さん達の集まりで披露したことがあります。「すれっからしって何ですか?」と聞かれてカクッとなったことがあります。しかしぜひこれから巣立つお嬢さん達にこの詩を読んでいただきたいと思うのです。
それでこの詩を、教授にご就任なさる加藤先生に餞(はなむけ)としてお贈りしたいと思います。
(縁側の場所を大幅に取ることをお許しください。)
-Y・Yに-
大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
そして深く悟りました
大人になってもどぎまきしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナがかくされている きっと・・・・
わたしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです ( 茨木のり子 )
Y・Y とはかつて新劇で活躍された山本安英さんのことです。
代表作は「夕鶴」で多方面に影響を与えた方のようです。
他界なさっています。
「わたしを束ねないで」「わたしが一番きれいだったとき」「寄りかからず」など、女性ならではの想いが凝縮されていてハッとさせられますね。
(ウレシイナ!)
女性にとっては「ソウダソウダ、よく言ってくれた!」と自分達の気持ちを代弁してくれているという気持ちが強いのです。私はさらに彼女の詩にある「まるで少年のような腕白さ」も結構好きです。「自分の感受性くらい」も大好きです。
自分が幼い日に感じてはいたけれど、表現できなかったものを彼女が見事に表現しているのに驚いたことがあります。「みずうみ」、「小さな娘が思ったこと」などです。表現はできなかったけれど、少女というものは魅力のエッセンスともいうべきものを、本能的に嗅ぎ分けるものなのだということを改めて認識した詩です。
無理に大人ぶるよりも、どうせ成るのなら本物の大人を目指してほしいと思うのです。
医療関係者の方には特に男性でも女性でもこの詩を読んで頂きたいと思っています。(別に声に出して読まなくても、配って頂いてもよいのですけれど。)
ところで、眞三先生にもこの詩が気に入っていただけたけると、とてもうれしいのですが・・・。