自分にあった「かかりつけ医」を探すには
かかりつけ医をどうやって? http://exhospital.exblog.jp/tb/2302329 に関して 「患者の生き方」より
かかりつけ医は、自分の身近にいることが最も大切です。従って、かかりつけ医を探すには、自分にとって便利な場所、住所や勤務先の近所から探すことになります。
次に大事なのは、コミュニケーションがとれ、一人の人間として信頼できることです。信頼できる医師であれば、通常の病気に対する適切な知識や技術は身につけているはずです。そして、いざ高度な手術を必要とする時や特殊な難病になれば、その技術や知識をもった専門医や定評のある病院を紹介してくれるでしょう。
医師の間では、似たもの同士がネットワークを持っています。患者さんをよく診ることのできる臨床医は、身近にいる臨床のできる専門医を知っています。最先端の研究に興味のある人は、そのような仲間を自分の回りに持ちます。
もし、新しい土地に開業したり、転勤してきたばかりの医師であっても、信頼できる医師なら、責任をもってよき専門医を調べ、紹介してくれるはずです。
紹介される側の専門医は、たとえ自分の知らない医師からの紹介であっても、他の医師からの紹介の患者さんを、より慎重に、そして大切に診ようとする意識があります。そのため、紹介元の医師がたとえ専門医と面識がなくても、専門医の診療内容に影響はしません。
信頼できるかかりつけ医の探し方を、具体的に考えてみます。先ず、その地域に長く住み、近所や町内会の世話をしている人、職場での情報通などに、よい医師を尋ねるのが一つの糸口です。そして、次が一番大切なのですが、あなた自身の目でしっかりと医師を観察し、医師としてではなく、まず人間としての評価をすべきです。信頼のできる人物か否かを見分けるのは、何も特殊な技術ではありません。他の社会で行なわれることと同じです。しっかりと目を開き、よく観察することです。そして、自分自身の勘を大事にしてください。
よいかかりつけ医を選ぶための観察する目安を、参考のためにあげます。
1)症状をよく聴いてくれる。
医者にとって、なぜ患者さんが診療所に訪れたのかの理解は大切です。一般の外来では、どの様に症状が現れたかをよく聴き、身体を丁寧に診察するだけで、8割以上の病気は診断が可能であると言われています。
症状を聴くということは、診断のためだけではなく、患者さんが病気をどう受けとめているかを知る点からも、大切です。最近、ナラティブ・ベースド・メディスン(NBM)という医療が語られますが、それは病気を患者さんにとっての一つの物語として受け止めようとするものです。
全く自覚症状がないのに、身体検査で見つかった異常のための受診と、全く検査には異常所見が出てこないけれども自覚症状が強いための受診では、病気に対する対処の仕方も当然異なってきます。
2)高価な検査機器や検査の結果に頼りすぎない。
CTやMRIなど高価な検査機器を備えた診療所や病院では、症状をろくに聞こうともせず、身体の診察しようともせず、検査での結果に頼る傾向があります。
機械の購入にあてた借金を返済するために、ある程度検査の件数をこなさなければならないという事情もあるかもしれません。今までの保険制度は出来高払い制度であり、検査をやればやっただけ医療費の請求でき、病院の収入につながったのです。検査に応じて、保険で請求するための病名がつけられるため、カルテにはずらりと保険病名が並ぶのです。その結果として、日本全体の医療費がかさみ、無駄も多くなります。
もう一つは、物質レベルだけで病気を診ようとする態度にも原因があります。その源は、医学教育にもあります。あるいは、行き過ぎた科学主義にあります。科学主義の医療の目指す方向は、あくまで物質レベルでとらえられる疾患です。しかし、多くの病気は物質レベルだけの事象ではないのです。
3)患者さんを叱りつけずに指導できる。
これからの医療では、高血圧、糖尿病、肥満、高脂血症など生活習慣病が重要な位置を占めます。生活習慣病の患者さんに対して、すぐに薬に頼ろうとせず、生活習慣の指導に注意をそそぐ医師が望ましいのです。
しかし、「酒をやめろ」と叱りつけるだけでは、飲酒をやめさせられるものではありません。患者さんの行動や生活習慣を変化させること、すなわち行動変容を目指した、情報の交換を基本とする医療が、これからのかかりつけ医には望まれるのです。
4)健康法や病気について幅広く興味をもっている。
専門医になると自分の守備範囲を極端に狭くする人がいます。自分の範囲外の医療にはまったく興味を示しません。
また、開業した医師でも、総合病院の専門医がそのままで、幅広い知識を身につけず開業する場合があります。ところが、かかりつけ医では、できるだけ幅広く健康に関する知識を備えた人が望ましいのです。常識的で博識の人です。このような人を選ぶのは、何も特殊な技術ではありません。
これとは別に、株やギャンブル、遊びにのめりこんでしまう人では、どうしても医療の幅広い知識や技術の習得がないがしろにされてしまいます。現時点の医学だけでも、その要求される範囲は膨大であり、すべてを把握することはできませんが、医学は日進月歩でもあります。医師は常に不完全感に悩まされながら、生きているのです。
5)自分の守備範囲をよく知り、その範囲を超えていれば適切な医者や病院に紹介できる。
かかりつけ医では、幅広い知識をもつと同時に、自分の診療する範囲、守備範囲を見極められることも大切です。そして、自分の範囲外であると判断したら、適切な医師や病院に紹介できることが望ましいのです。
医師にとっては重症感を察知することも大事であり、急を要するか否かの判断ができ、要する時には、応急処置をした上でしかるべき救急医療機関に紹介しなければなりません。
慢性の疾患であっても、難病であればその症例をよく知る専門医への紹介が必要です。
従って、はったりをかまさない、謙虚な人がよいのです。そして、人の世話を面倒がらない人が望ましいのです。
6)勤務する人が頻繁にかわらない診療所。
看護師や事務員など勤務する人が頻繁にかわる診療所は、何らかの問題を抱えていることが多いものです。医師や事務長に問題行動や不正があり、勤務する人が嫌になってやめてしまう場合も少なくありません。
このようなことは医療とは関係ないように思われるかもしれませんが、かかりつけ医を選ぶ際に技術や知識でなく人物を優先にするなら、注意しておくべき大事な項目です。
7)長年通う患者さんが医師を信頼している診療所。
表面的には患者さんをよく診ているようなふりをする、商売上手な医師もいます。しかし、そのようなメッキは、長い年月通っている患者さんには、はげてくるものです。
長年通う患者さんが信頼をよせる医師は、あなたを裏切ることも少ないでしょう。従って、待合室での情報収集も大切です。過去の歴史は自分にはないので他人のものに頼るしかしようがありません。ただし、最終的な判断には、自分の目でみた印象を大切にして下さい。
このように項目をあげていくと、医学的な内容での判断というよりも、一般的で常識的なことばかりです。すなわち、かかりつけ医の良し悪しは、医学には素人の目でも、充分に判断できるのです。特殊な技術や知識を期待しないのであれば、このような判断基準でおおよそ間違いはありません。
出身大学、博士号の有無、学会の認定医・専門医、大学教授や学会の偉い人からの推薦文をパンフレットにのせていることなどを、判断材料とすべきではありません。これらを、自己宣伝に使っている人こそ怪しいと思い、疑ってかかるべきです。また、高価な器械をおき、それを売り物にしている診療所も、かかりつけ医として選ぶには要注意です。
かかりつけ医は、自分の身近にいることが最も大切です。従って、かかりつけ医を探すには、自分にとって便利な場所、住所や勤務先の近所から探すことになります。
次に大事なのは、コミュニケーションがとれ、一人の人間として信頼できることです。信頼できる医師であれば、通常の病気に対する適切な知識や技術は身につけているはずです。そして、いざ高度な手術を必要とする時や特殊な難病になれば、その技術や知識をもった専門医や定評のある病院を紹介してくれるでしょう。
医師の間では、似たもの同士がネットワークを持っています。患者さんをよく診ることのできる臨床医は、身近にいる臨床のできる専門医を知っています。最先端の研究に興味のある人は、そのような仲間を自分の回りに持ちます。
もし、新しい土地に開業したり、転勤してきたばかりの医師であっても、信頼できる医師なら、責任をもってよき専門医を調べ、紹介してくれるはずです。
紹介される側の専門医は、たとえ自分の知らない医師からの紹介であっても、他の医師からの紹介の患者さんを、より慎重に、そして大切に診ようとする意識があります。そのため、紹介元の医師がたとえ専門医と面識がなくても、専門医の診療内容に影響はしません。
信頼できるかかりつけ医の探し方を、具体的に考えてみます。先ず、その地域に長く住み、近所や町内会の世話をしている人、職場での情報通などに、よい医師を尋ねるのが一つの糸口です。そして、次が一番大切なのですが、あなた自身の目でしっかりと医師を観察し、医師としてではなく、まず人間としての評価をすべきです。信頼のできる人物か否かを見分けるのは、何も特殊な技術ではありません。他の社会で行なわれることと同じです。しっかりと目を開き、よく観察することです。そして、自分自身の勘を大事にしてください。
よいかかりつけ医を選ぶための観察する目安を、参考のためにあげます。
1)症状をよく聴いてくれる。
医者にとって、なぜ患者さんが診療所に訪れたのかの理解は大切です。一般の外来では、どの様に症状が現れたかをよく聴き、身体を丁寧に診察するだけで、8割以上の病気は診断が可能であると言われています。
症状を聴くということは、診断のためだけではなく、患者さんが病気をどう受けとめているかを知る点からも、大切です。最近、ナラティブ・ベースド・メディスン(NBM)という医療が語られますが、それは病気を患者さんにとっての一つの物語として受け止めようとするものです。
全く自覚症状がないのに、身体検査で見つかった異常のための受診と、全く検査には異常所見が出てこないけれども自覚症状が強いための受診では、病気に対する対処の仕方も当然異なってきます。
2)高価な検査機器や検査の結果に頼りすぎない。
CTやMRIなど高価な検査機器を備えた診療所や病院では、症状をろくに聞こうともせず、身体の診察しようともせず、検査での結果に頼る傾向があります。
機械の購入にあてた借金を返済するために、ある程度検査の件数をこなさなければならないという事情もあるかもしれません。今までの保険制度は出来高払い制度であり、検査をやればやっただけ医療費の請求でき、病院の収入につながったのです。検査に応じて、保険で請求するための病名がつけられるため、カルテにはずらりと保険病名が並ぶのです。その結果として、日本全体の医療費がかさみ、無駄も多くなります。
もう一つは、物質レベルだけで病気を診ようとする態度にも原因があります。その源は、医学教育にもあります。あるいは、行き過ぎた科学主義にあります。科学主義の医療の目指す方向は、あくまで物質レベルでとらえられる疾患です。しかし、多くの病気は物質レベルだけの事象ではないのです。
3)患者さんを叱りつけずに指導できる。
これからの医療では、高血圧、糖尿病、肥満、高脂血症など生活習慣病が重要な位置を占めます。生活習慣病の患者さんに対して、すぐに薬に頼ろうとせず、生活習慣の指導に注意をそそぐ医師が望ましいのです。
しかし、「酒をやめろ」と叱りつけるだけでは、飲酒をやめさせられるものではありません。患者さんの行動や生活習慣を変化させること、すなわち行動変容を目指した、情報の交換を基本とする医療が、これからのかかりつけ医には望まれるのです。
4)健康法や病気について幅広く興味をもっている。
専門医になると自分の守備範囲を極端に狭くする人がいます。自分の範囲外の医療にはまったく興味を示しません。
また、開業した医師でも、総合病院の専門医がそのままで、幅広い知識を身につけず開業する場合があります。ところが、かかりつけ医では、できるだけ幅広く健康に関する知識を備えた人が望ましいのです。常識的で博識の人です。このような人を選ぶのは、何も特殊な技術ではありません。
これとは別に、株やギャンブル、遊びにのめりこんでしまう人では、どうしても医療の幅広い知識や技術の習得がないがしろにされてしまいます。現時点の医学だけでも、その要求される範囲は膨大であり、すべてを把握することはできませんが、医学は日進月歩でもあります。医師は常に不完全感に悩まされながら、生きているのです。
5)自分の守備範囲をよく知り、その範囲を超えていれば適切な医者や病院に紹介できる。
かかりつけ医では、幅広い知識をもつと同時に、自分の診療する範囲、守備範囲を見極められることも大切です。そして、自分の範囲外であると判断したら、適切な医師や病院に紹介できることが望ましいのです。
医師にとっては重症感を察知することも大事であり、急を要するか否かの判断ができ、要する時には、応急処置をした上でしかるべき救急医療機関に紹介しなければなりません。
慢性の疾患であっても、難病であればその症例をよく知る専門医への紹介が必要です。
従って、はったりをかまさない、謙虚な人がよいのです。そして、人の世話を面倒がらない人が望ましいのです。
6)勤務する人が頻繁にかわらない診療所。
看護師や事務員など勤務する人が頻繁にかわる診療所は、何らかの問題を抱えていることが多いものです。医師や事務長に問題行動や不正があり、勤務する人が嫌になってやめてしまう場合も少なくありません。
このようなことは医療とは関係ないように思われるかもしれませんが、かかりつけ医を選ぶ際に技術や知識でなく人物を優先にするなら、注意しておくべき大事な項目です。
7)長年通う患者さんが医師を信頼している診療所。
表面的には患者さんをよく診ているようなふりをする、商売上手な医師もいます。しかし、そのようなメッキは、長い年月通っている患者さんには、はげてくるものです。
長年通う患者さんが信頼をよせる医師は、あなたを裏切ることも少ないでしょう。従って、待合室での情報収集も大切です。過去の歴史は自分にはないので他人のものに頼るしかしようがありません。ただし、最終的な判断には、自分の目でみた印象を大切にして下さい。
このように項目をあげていくと、医学的な内容での判断というよりも、一般的で常識的なことばかりです。すなわち、かかりつけ医の良し悪しは、医学には素人の目でも、充分に判断できるのです。特殊な技術や知識を期待しないのであれば、このような判断基準でおおよそ間違いはありません。
出身大学、博士号の有無、学会の認定医・専門医、大学教授や学会の偉い人からの推薦文をパンフレットにのせていることなどを、判断材料とすべきではありません。これらを、自己宣伝に使っている人こそ怪しいと思い、疑ってかかるべきです。また、高価な器械をおき、それを売り物にしている診療所も、かかりつけ医として選ぶには要注意です。
この記事へのコメント
しんぞう先生のお話を伺っていると、「教育」だなあってつくづく思います。
医学教育というよりも、幼児教育。
あいさつをしましょうとか、生き物の命の大切さを知りましょうとか、
ひとりじめはいけませんよとか。
だからお医者さんは、ちっちゃいとき、わんぱくだったり、いじめっ子だったり、悪かったとしても、肌で「痛み」を感じた人がなれたらいいなあと思います。
もちろん気づけば変わりうるもので、しんぞう先生みたいにこうして働きかけてくれることに目が向けば、よくなれると信じてます。
ただ受けた教育によっては、お医者さんを責めるのは酷かなって思います。
そういうふうに育てられずに医師になっちゃったら、きっとつらいでしょうね。
だから、ニノチカさんがおっしゃるように、地域に目を向けて、子供たちの教育(ということはつまり親への教育)にも積極的に取り組む必要がでてくるんかなあと感じます。少なくともご近所の人とあいさつするとか(意外とできないでしょ…)。
そうやって、自分を見つめ直しながら、子供たちと遊んでます。
開業医同士、専門外だとPCや書面で紹介をし、フィードバックもまたあるわけですが、2~3回やり取りするとお互いのレベルが解ってきます。
たとえばあの耳鼻科の先生すぐステロイド使うみたいだから紹介やめようとか、なります。忙しくて説明不足でやるから・・やめようとか。
ですから、たった一人信頼できる方をホームドクターにすれば安心なのだ思います。遠慮しないで聞きたいことは話す。納得するまでする。です。
omori-shさん。自分を見つめなおしって、中々できないことです。
sinsenさん。医者同士でも実は良い医師の判断は難しいのです。悪い医者は直ぐにわかりますがね。
子どもが生まれ小児科にかかるようになってから、かかりつけ医を持つ大切さがわかりました。
上記のかかりつけ医の条件にあてはまる医師が、総合病院にいます。
でももっと軽い風邪などの時に、地域の医院を試してみるのもいいかもしれないと思いました。
字が読めぬうちから氏の作品に親しみ、彼のメッセージの洗礼を受けて育った子どもはその後一体どんな大人になったのでしょうか?情緒豊かに育ったかはわかりませんが、少なくとも彼の死を知った瞬間、泣き崩れて周囲を驚かせました。しかし、泣いた本人が一番驚いていたのです。意識せずにこんなにも彼を慕っていたことに改めて気がついたからです。(XーJAPANのヒデが死んだ時の泣いた少年・少女の気持ちがわかります。)
先日、全集の一部を読む機会がありました。「こんな作品も書いてらしたのか。」と思わず唸った作品は能の「黒塚」を見事に宇宙を舞台にしたSFに置き換えていた作品でした。
雪ウサギさんをうならせた(!)という
能の「黒塚」をSF仕立てにしたもの読みたくなりました。
いいものお教え下さってありがとうございます。
別の作品かと勘違いのようです。
最近ミスが多いのです。すみません。疲れていました。
雪ウサギさん。ブラックジャックなど、手塚治の作品は確かに良いと思います。しかし、それの愛読者だったといっている(科学主義の)変な医者もいっぱい知っていますので、結局はその作品のどの部分を感じているかなのだと思います。手塚氏の思いは伝わっていないことも多いと思います。残念ながら。
紀伊国屋では絶版のようですが、Amazonにはありましたよ。
思えばいろいろ読んだ時期がありました。また読み直すと当初と違った感じ方が出来るのかもしれないですね。(ところで、「陽だまりの樹」は幕末の緒方洪庵の適塾が舞台でした。手塚先生のご先祖さまはじめ、福沢諭吉や坂本龍馬も出てきます。)・・余談が過ぎました。本題から外れたようです・・。
彼女が医師になりたての頃、病棟の子に他愛もなく言った一言、「今度手紙だすね。」そして届くのをひたすら待っていた子ども。「私が言ったことを真に受けてずっと待っていたんだよね。」と涙ぐんだ女医さん。
実は、このようなテーマが手塚作品には何故か多いのです。先に挙げた「黒塚」もしかりです。都会へ行ってしまった子どもの帰りをひたすら待つ母しかり。異星の地で亡くなった主人が還ってくるのを待つロボットしかり。幼い頃、ふるさとの川で会った物の怪が約束どおりずっと待っていたことを知り、「お前は30年も僕を待っていたのかー!」と言って泣き出す主人公のシーン。まるで何かへの贖罪でもあるかのようによく出てくるテーマなのです。このテーマのトラウマは結構あります。どちらかというと、被害者意識よりも加害者意識に敏感になることです。しかしこの意識こそ医療関係者には必要なことかもしれないと思っています。人間の体験には限りがありますから、それを補い追体験するためにもいい作品に触れることが(絵本でも、漫画でも、本でも、映画でも)幼い頃から必要になると思います。
ちょっと前からわたしはトラウマと依存症についての本を読んでいるのですが「見捨てられ体験」ということの奥深さを感じずにはいられません。そのことをこれほど看過していらっしゃることに、驚きました。
(とんでもない間違いになることもありますけれどね。)
でもそれは寛容な読者が、首をかしげながらも必ず正しく読み変えてくださるものです。それは信じてもよろしいのでは?
(ただ、粗忽者の感は逃れられないと思いますが。)
そういう私もかなりやっていまして・・・・・。
ここで訂正させていただきます。
襲名披露パーティ は 改名披露パーティ に
Guten Nahat! は Gute Nacht! に
それぞれ、この場をお借りして訂正させていただきます。
(これもまた善し悪しではありますけれどね。)
よくわからないので教えてください。
感情と出来事を切り離す作業を丁寧に行います。ほぐしていき多面的に考えられるよう修正をしていくわけです。
加藤先生の仰るスピリチュアリティの分野やご推薦本(解決手法のアプローチ、サルートジェネシス)は心療内科の分野からの対処法なのだと思います。看破していると申したのは、医療者側のとりくみとして患者さん側に寄り添うため新しいこうしたやり方を、雪ウサギが鋭い感覚でご指摘されているなあ。と、思ったということです。説明が不充分かもしれませんが、少しずつお応えいたします。
しかし、出来事を自分の人生におこった事のひとつとして思い出すことができ、だから今の自分があるとその成長を認め新しい人生に踏み込んでいけるようになればおのずと「救い」が得られていることではないかと思います。
ご容赦下さい。許容量こえているようです。
雪ウサギさん、ご寛容のほどよろしくお願いいたします。
お忙しい中でのコメント痛み入ります。変なタイミングで質問したのかな?って気になってました。
水井さんて本当に誠実なお人柄なのですね。確か医療関係の方でしたよね。水井さんのような方がたくさんいて力を合わせれば、きっと医療の世界も徐じょに変わっていくのでしょうね。
「認知のゆがみ」は罪だと思います。誰もそんなこと思っても解釈もしていないのに、そう信じ込んで自分を追いつめて行く。「人を殺すのに刃物はいらぬ。」といいますけれど、「この認知のゆがみ」も同じだと思います。思いこみによって命を縮める人もいるのではないかと思うとたまらなくなります。こんな時にぜひ良質なスピリチュアルカウンセラーの出現を待ち望みたいものです。上記の話は引き続きまたしてくださいね。
それとも新学期のご準備でお忙しくなさっているのでしょうか?
ずっとお出ましにならないので少々気になるのですけれど・・・。
「シンゾー先生! お元気なのですかぁー?」
生き延びるためのその方の手段のひとつであったのだと思います。こうして、心の他の部分を傷つけることなく生き延びてこられたのだと思います。苛酷な時代を生きのびサバイバーからスレイバーへと成長できれば自己の人生を達成し成功へと導けると感じられるのではないでしょうか。
そのようにとらえた方が希望が持てると感じませんでしょうか。(ええかっこしいではありませんけど)
黙って長く休むとお二人が心配されるような気がしますので一応お断りしておきます。(何だかいつのまにかスタッフ扱いになっていません?)
水井さん、帰ってくるまでに(帰ってきてからでもよいのですが)、また認知のゆがみの続きをお話していただけませんか?
ブログだとおみやげのお菓子が買ってこられなくて残念ですね。この点に関しては魂の世界と同じですね。物質は全て持っていけませんもの。するとブログの世界で一番大切なものって何なのでしょう?
水井さん、帰ってくるまでの宿題です。考えておいてください。
それと今ひとつ、あることに気がついてしまいました。
つまり、もし私が旅先で死んでしまったら、それっきりだということです。どこの誰だかわからないのですから。これはブログの住人全てに言えることですよね。死亡通知が出るのは、失礼ですが、ブログで実名を公開していらっしゃる加藤先生ぐらいのものですよ。ブログの住人の宿命なのでしょうか?ちょっぴり悲しい気持ちになってしまいました。
でも元気を出して行って参りまーす。
言葉のやりとりの醍醐味を味わいたいです。柳田邦夫氏の「言葉の力」の中にブログにおけるバーチャルな世界に対する警告があって(万能感が容易く得られる・依存の危惧など)なるほどなァ。と思いましたが、それでも言葉の持つ力自体についてはとても肯定しています。やりとりすることで得られる満足感を味わいたいと思っています。そのためにも、発した言葉に責任をもつことは大切な要素でしょうね。(気をつけます。)文脈からその人のオリジナりティーというか癖みたいなものがわかって、それもまた良しとなるといいなあと思っています。行間を読みたいです。
次に時間軸とコメントやトラックバックで繋がり軸から捉えると、ブログの世界はちょっと想像もできないくらい可能性が拡がるわけですから、自分を見失わないことは大切なことと思います。振り回されないためにも、日頃の読書や静かな思索といった
ひとりで取り組む姿勢がいるのかなと思っています。他のご意見もお聞きしたいです。ところで、この場は適切ですか?
いくつか読んだ中に興味深い話がありました。最終段階での話です。
多くの場合、絶望に時期に一緒にいてくれた友人や家族それが唯ひとりであってもそういう人に対するほっと心温まる感謝の気持ちから再出発は始まるということです。
再出発のエネルギーが少しずつ高まってはきますが容易ではないようす。
親密さを結ぼうにも屈辱への恐怖が秘密を生み、秘密が孤独へ孤独がまた屈辱へと目に見えない傷は人間関係の見えない壁を作るプロセスになるというジレンマが生じるからです。
問題を引き起こしているのは、感情自体ではありません。それを取り囲んでいる秘密こそが原因で、屈辱に油を注ぐことになるからです。秘密があると自分を偽ることになうからです。そのことは親密さの妨げになりす。
こうして、心の扉を開ける演習が始まるのです。開放は肉体的にも解放となり、関係性としての飽きない循環へと導くように思います。
その2で触れた、飽きない循環の関係をもう少し考えています。つきあいは淡交にして一期一会というのは利休の哲学ですが、奥が深いですよね。
このやりとりも恐らくはこの瞬間だけのものですが、あなたの中に入り認識されていれば、存在として残りいつでも再確認できることになります。共に生きることとなり、終わる関係ではありませんよね。いつも語りかけそして答えてくれる存在になり得ます。哲学めいて難しくなってきます。
あまりくよくよせず、いつでも全力投球のお付き合いということで濃くしていきましょう。お帰りお待ちしています。
記事の本題からかけ離れた対話は、ブログ1ヶ月のような場所で行ってもらえると、訪れた方にも違和感がないかと思います。
まもなく、ブログ2ヶ月を立てます。
成り行きに任せ過ぎていたようです。すみません。
本題に戻していきましょう。
自分にあった「かかりつけ医」の探し方でした。
自分にあった「かかりつけ医」として、患者さん本来の目的(つまりは回復、治癒)に向かって、いろんな状況からどうすべきか混乱に陥っている時にその患者さんに対して、的確な軌道修正のアドバイスのできる医師ということも言えそうです。自己を振り返らせてくれる人という意味で大切です。