夜のローソク行列

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夜になってローソクの行列に参加した。ルルドの街中に並ぶ土産物屋で、長いローソクとその先に紙製の被いを買った。紙被いは提灯のような役目を果たし、賛美歌の詞が、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語などでそれぞれの言葉で書かれている。

聖堂と川の間にある広場には、ロウソクを手に持った人が次々と集まってきた。車椅子にのった患者さんが大勢参加しているのもルルドならではのことであろう。ヨーロッパ各国やアフリカからの黒人など、それぞれの巡礼団の地区の名前を表したプラカードをもってあつまる。

やがて、午後9時になるとスピーカーから賛美歌が流れ、行進が始まる。クリスチャンの間の有名な賛美歌ばかりなのだろう。それぞれの人は自分の国の言葉で一斉に合唱しながら一歩一歩と進んでいく。歌が終わるとウオッーという歓声と共にロウソクをひときわ高く掲げる。川沿いの道を歩き、正面の玄関まで行き、そして最後に聖堂の前まで1kmほどであろうか。聖堂の左にはひときわ大きい灯がみえる。

世界の各地から集まった人が、言葉は異なっていても同じ歌を合唱し、希望の灯を手にかざして歩くさまは感動的だ。周りの人との一体感が得られる。このような行列が特別の祭りの日だけではなく、毎晩毎晩2万人から3万人が参加して行われていることは驚異的なことだ。

宗教のもつ一体感とはこのようなものなのだろう。共通の歌をもち、声を合わせてそれを歌うだけでも、人は心を許しあうことができるのではないだろうか。カソリックの人々がキリストの教えが世界中に広がれば平和が来ると考えるのも、この行列を体験すると無理もないような気がする。

その一方で、私はこれからの世界は宗教の多様性を受け入れるべき時期を迎えていると信じている。それぞれの人が自分の信じるものをもって自分を生き、それをお互いに尊重することができれば平和は訪れよう。共通のものを持つことは、多様性を否定することには直接つながらないのではないか。多様性を保ちながら共通のものを持てばよい。そんなことを考えながら、感動の行列を終えて深夜の道をホテルへと向かった。

この記事へのコメント

水井
2005年10月13日 19:59
こんばんは。しんぞうさん、ローソクを掲げ参列されています多くの方の心情は、本当にあらゆる垣根を超えているという印象です。

”聖なるもの”に触れ畏怖心で魅了され陶酔する一体感は、ゆっくりとあたたかい恵みをもって迎えられてやがて平安に満たされるのでしょうね。
まさに宗教的感情です。
いのちのエネルギーがそうさせるのでしょうか。
事情は個々に違っても、おそらく願わしい方向への展開や充実を求めているわけですから。

限界状況にあって、それでもそのことを了解し受容するという宗教のもつ根元的なこと、自己を超えたものにひれ伏しただただ有り難いと感じ、希望の確信が深まるという実存的なこと、こうしたことは、宗教をひとつにまとめる共通するものです。
ここルルドでの参列は、それを実感できるところといえそうです。
しんぞう
2005年10月24日 01:08
宗教とは本来自分と自分にとっての神(畏敬するもの)との対話であり、孤独な作業だと思うのですが、共通の神を持つことは一体感を生み出し人類に安心感を与えるのでしょうか。

先週マザーテレサの映画を見ました。マザーテレサの孤独感を支えていた彼女と神とのつながりの深さと強さを感じることができました。 
水井
2005年10月24日 13:06
ここでもう少し・・と思いますが、(折角の好機なのに)やはりこと"宗教"となりますと、
アレルギー反応がでてしまうのかもしれないな。と、感じています。

”宗教”にまつわる誤解の中で、最も強く信じられているのが、「取り込まれる思想」という、説得力ある誤解なのかもしれません。
それによって、自我境界の一部が突然崩壊し、自己が存在統合する境地でもあるので、当然畏れが生じるからなのでしょうね。

かつて、人々は知識と共に心のあり方だとか身の処し方もまた大切な修養としてきましたが、最近の学問のあり方というものには、知育偏重で、少し寂しいものを感じてしまいます。
その一方で、自分の生き方を模索し自分捜しをする人が増えています。それは、生き辛さを感じて暮らしている人が増えている現れでもあって、
これからは、人格的統合という意味合いからも、宗教に回帰していきそうとおもっているのですが。
ちょっと、島薗進先生の影響大かもしれません!
2005年10月26日 20:14
マザー・テレサの神とのつながりは、ほんとうに深いものですね。
信仰心の深いかたの”聖なるものの”のありがたさは、神との対話で得られるものと思います。
それは、決していわゆる空虚な孤独感とは違う気がいたします。つながる一体感のレベルがそうさせるのでしょうか。
それほど信仰心のない方であっても、高次の力に自分を明け渡し、そこから、ほんとうのどん底から、やっと生かされていることを感謝できるれば、ある理解が深まるのでしょうか。

自分ではどうにもならない”生の淵”に立ったときはじめて感得できるように思います。
スピリテュアルの本質は、
信仰心のあるなしに拘わらず、このありがたい平安を感じられれば理解されるように思います。
神とのつながるとはどういうことか、という理解と思います。
 
francis
2010年02月10日 11:14

兄弟姉妹の皆様、

秋田の聖母マリアの奇跡の巡礼地を知っていますか?

1973年から1982年まで、秋田県秋田市郊外の小さな修道院で、聖母マリアの不思議な出来事がありました。

当時は、世界的に大騒ぎになり、奇跡に立ち会ったカトリック神父が出来事を記録した著作は、4ヶ国語に翻訳され、現在も世界で読まれています。

世界のカトリック教徒の間では「Our Lady of Akita」の名前で知られています。

世界11億人のカトリック教徒の間では、よく知られた出来事なのです。

ぜひ、ホームページをご覧下さい。
http://www.newlifejm.net/japan_top.html

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