キッペス先生、こんにちは

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加藤先生。メールありがとうございました。お会いできるとうれしいです。
今月末、東京に行く予定があり、もし先生のご都合がよろしければ下記の日時の
いづれかにぜひお願いします。
① 1月29日(土)午後6時~
② 29日(土)午前中~11時30分頃まで(四谷での会議)
③ 28日(金)午後6時~ (ホテルXXでの宿泊)
切符の手配などしますので、早めにご連絡いただければ助かります.

2005年1月4日、久留米市の臨床パストラルケア教育研修センターをベースに活動される神父さま キッペス先生より、突然、日にちを指定して会いたいとのメールをいただいた。(http://www.pastoralcare-jp.net/pastoral/japanese/jmenu2004.htm
昨年10月に東京大学の島薗先生が主催される研究会でお会いし(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku/ja/gyouji/gyouji_k041030.htm)、紹介され、その後一度メールのやり取りをしたばかりであった。私もキッペス先生には一度個人的にお会いし、話をうかがいたいと思っていたのため、迷うこともなくイエスとのメールを返した。②と③は既に他の予定が入っており、必然的に①の1月29日午後6時にお会いすることとなった。

 1月29日、新宿伊勢丹会館の「あえん」で夕食を一緒にしながら、キッペス先生よりスピリチュアルケアについて色々な話を聞かせていただいた。周囲の人の話し声が少々うるさい環境ではあったが、素材を生かした食事を、キッペス先生にも気に入っていただいたようだ。一皿一皿ウエイトレスが片付けに来るたびに、これはおいしかったと声をかけ、店員の気持ちを良くさせている。食事も終わり、店を出ようとするとき、キッペス先生は ふっと言われた。

「今日は私にとって特別の日でした。そのような日に加藤先生とお会いできてうれしかった。」
「ええ、そうなのですか。実は、今日は私にとっても誕生日なのですよ。」
「ああ、そうですか。誕生日の夜にわざわざ会っていただいてありがとう。今日は、私が神戸港につき、日本に初めて上陸した日でした。」

 ドイツ、ミュンヘン大学の神学部を卒業し、キッペス先生は日本にはるばる渡って来られた。まったく身よりもいない極東の国へ、船の長旅で渡ってこられ、どのような気持ちで神戸の土を踏まれたことだろう。今も、その日を特別の日として語られるキッペス先生の心に思いをはせた。

 キッペス先生の瞳は底が知れないほど澄みきり、その柔らかい話しぶりに魅せられる。お互いにとって大事な記念日の日に会うという、不思議なそして何ともすがすがしい気持ちになる出会いであった。

 一昨日より、東京の品川で第19回国際宗教学宗教史会議世界大会(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/iahr2005/)が開かれている。不思議な縁に導かれ、その大会実行委員長の島薗教授と知り合いとなり、同学会のパネル「医療とスピリチュアリティ」(3月29日;座長上田紀行さん)でスピーカーとして話すことになっている。宗教学に門外漢の私は、この1週間泥縄式に勉強し、キッペス先生よりいただいた「スピリチュアルケア;病む人とその家族・友人および医療スタッフのための心のケア」(出版 サンパウロ)を読んでいた。

 その本の裏表紙にキッペス先生の著者紹介が書かれていた。

 1956年来日して鹿児島県において司牧活動に従事。

 「何という偶然なんだろう。」

 私がはるばる四国の徳島にたどりついたと同じ年の同じ日に、キッペス先生は、神戸港に上陸されたのだった。その時、すでに二人が出会うという縁はつくられていたのだろうか。

スピリチュアルケア―病む人とその家族・友人および医療スタッフのための心のケア

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この記事へのコメント

水井
2005年03月27日 09:47
お互いにその方にとって特別な日に、
めぐり逢うべき特別な方と逢われたということですね。
きっと、とても深い意味のあることのように思います。
(僭越ながら述べさせていただくと)
何かしら惹かれるような人とは、人生の目的に共通点があり
その大いなる目的のために協力し合える人だと思うのです。
これまでにも、加藤先生にはそのような勘がはたらき、
運命が開けたようなことがおありではないですか?そんな気がします。
ご縁のある人、同じようなエネルギーで引き合う人は、自分の人生の
可能性をより広げてくれるんだと思います。
そうなれば自分の一番いいところが発揮され、魂の透明度もますことでしょう。
本当にやるべ人生における役目はこうして導かれていくのかもしれないですね。坂本龍馬にも勝海舟や西郷隆盛との運命的な出会いがありましたように。

2005年03月27日 21:56
実は最近このような不思議な出会いが多いのです。
まるで誰かによって、仕組まれているような感じです。
これから、それらの話も紹介していこうと思います。
雪ウサギ
2005年03月28日 01:48
水井さん、眞三先生、確かに何か大きな力に動かされていると感じることはありますね。これはもう個人の力でどうすることも出来ないので、私はすぐ下駄を預けてしまい、「大いなる意志の御心のままに」と祈ってしまうのですが。そうかと思うと私が行きたい方向とは別の力が働いて、心と違う行動をとってしまい、「なぜなんだ?」と突っ込みを入れたくなるときもあります。人間の身体と心は借り物なのかしら?と思うことがあります。そうでなければこんなに思うようにならない訳がないと思ってしまうのです。ところで私の母の誕生日も1月29日です。これからは母にお祝いを言うときは、眞三先生の誕生日も思い出して、その場で先生にもお祝いを言うことにいたしましょう。
sinsen
2005年03月28日 21:20
ウェルデマール・キッペス先生のセミナーに参加しました。
そこでのメモからですが、
自分の中で変えられないのも=スピリチュアルなこと
なので自分の生きる意味を知らなければスピリチュアルなケアは授けられない。まずその方向・目的が第一であり、方法・手段は第二。自分の価値観を押しつけないこと。ホストはゲストが自分自身の核から生きること核を生きることを応援し手伝いさせてもらうこと。
とあり、とても役だつことばかりでした。
キッペス先生は21世紀の特徴として“うつ”をあげていました。自殺・ひきこもり・依存症・PTSDなど。-そうか、これはスピリチュアルな病なのかーって思いました。どなたか心理学からのアプローチとの違いを
お教えいただけませんでしょうか?つまり、スピリチュアル的に健康とはどういうことになるのでしょうか。自分のためにお聞きしたく思います。

2005年03月29日 21:14
雪ウサギさん。お母様と同じ誕生日で光栄です。
sinsenさん。スピリチュアルペインというのがあるのですが、それは自分がなぜ生きているのかなど生きている意味について悩むことをいいます。そのような悩みの結果としてうつになることもあるのでしょう。これらの悩みは心理学では解決が難しいのです。
スピリチュアルに健康とは、自分自身の生きがいとか使命感をもって、充実感を持って生きていくことだと思います。
sinsen
2005年03月30日 16:14
ご回答ありがとうございます。
先生の言葉に「老人は老人で社会の中でどういう意味があるのか、弱者は
どういう意味があるのかを考えるべき・」というのがありました。初め先生のご本を読んで、やはり恵まれた理想的な患者ー医者関係が、気になりました。実際、経済的な理由やその頃の風潮で教養を身につけることなく老人になった方々が多いと思うのです。こうした方々にとっては、存在価値が、なかなかお医者さんの前では自覚ができないのです。
このことも、スピリチュアルペインと関係があるのかもしれませんが、どうやって、そういう立場の人を引き上げることが出来るのか、あるいは医療者側が降りてゆけるのかー。と思います。
水井
2005年04月01日 01:59
加藤先生のご著書に出てくる病の持つ積極的な側面ー多田富雄先生と鶴見和子先生の共著「解ごう(変換文字なし)」の箇所ごらんになっては如何でしょうか?人間が生きる上での本質的な示唆があります。このお二方の思考の端緒はご自身の発病にあります。無事生還した後、ただ観念で語ることを排除し鋭い洞察力自己と対峙しています。病んだからこその昇華現象なのだと思います。迷い悩むことを見事にプラスにした結果だと思います。「それでも、立ち上がる。」といったことは教養とは関係なくなされているように思うのですが、どうでしょうか。
ここまでくると患者さん対医療者側との捉え方をも超えているように思います。
雪ウサギ
2005年04月03日 21:23
「空飛ぶ法王」と言われたローマ法王、ヨハネパウロ2世の功績に対して敬意を表するとともに、心より追悼の意を表します。
キッベス先生もさぞかしお悲しみのこととお察し申し上げます。
2005年04月10日 01:11
水井さん代返有難うございました。

sinsenさん。キッペス先生の本の中にも、老人で倒れられ他人の世話になることを余りに遠慮しすぎても良くないというようなことが書かれていました。どのような状態になっていても、その人には生きる意味や価値があると考える。それがスピリチュアルケアの出発点です。自分が植物状態になったら生きていたくないと思う人は、おそらく植物状態の他人を、本当は生きている意味などないと考えてしまっているのではないでしょうか。

私自身がそうです。それでもそこから脱却しないといけないのだろうと最近感じています。
2005年04月10日 01:14
ローマ法王ヨハネパウロ2世は、新しい時代のキリスト教を切り開きはじめた方だと思います。私も哀悼の意を表します。
東垣内
2005年05月31日 20:51
加藤先生、先日、講義の中でキッペス先生が「患者が責任を持って最後まで生きる」ことについて話されていたのですが、一時期の自分の欲求を抑えることによって社会の中で生きていることに対する責任を果たすならば、終末期にあってもその「生」はより高められたものとなることと感じます。これは、社会の中にある「生」だからです。
東垣内
2005年05月31日 20:52
続きです。しかし、自分自身の「生」に対し責任を持つこととはどういうことなのでしょうか?キッペス先生の例えでは、終末期の肺がんの患者さんがタバコをのみたいとおっしゃられ、その時に、もし自分自身の「生」に対し責任を持つならば、タバコをのむべきではないのではないかと話されました。もちろん先生は、最後の選択は患者さんが決めることとも話されていました。私は、キッペス先生の例えに納得する反面、患者さんに対し、根本的に最後の瞬間まで「生」に対する責任を求めるべきなのだろうかという点で悩んでいます。
患者さんの最後の望みをかなえるために、ホスピスでは精一杯のケアがなされていると学んでいます。望みをかなえること、すなわち本人にとって充実した最後の時を送ることと、充実したものとするために「生」に対し責任を果たすこと、私の中で混乱が続く毎日です。加藤先生をはじめ、皆様から何かご意見をいただけたらと思います。よろしくお願いします。
眞三
2005年06月01日 12:29
大変回答の難しい質問ですね。キッペス先生にも伺いたいところです。
一度この文をキッペス先生に送ってみましょう。

私は、本人にとって充実した最後を送ることと、その人の欲望をかなえることは少し違うのかなと思います。たとえば、その人が芸術家で何か作品の製作のなかばであり、それを完成させたいと体に無理をかけているとしたら、それはその人の「生」に対して責任を持っていることになるのではないでしょうか。つまり、タバコをすうことと、生をかけた仕事(行動)をすることとは別の次元の問題だと思うのです。
それでは、一般の人が全員そんな仕事を死ぬ前に持っているかと聞かれると、そうではないと答えざるをえませんが。
東垣内
2005年06月01日 23:51
なるほどと感じました。その通りだと思います。そして、先生のお返事を読んで、また少し違うことを考えました。「その人の欲望をかなえること」についてです。もちろん、言うまでもなく社会のなかで問題となることがない場合ですが、人は死の瞬間まで理性的であらねばならないのでしょうか?私自身は、理性的でありたいと強く思います。しかし、死を間近にした人に対し理性的であることを求めること、私はそのようなこと言える立場にあるのかどうか疑問に思います。私には、これからも「生、命」があります。私の立場からいったいどのように死を間近にしている人に向き合えばよいのかという問い発展してきているように思います。ご意見をさらにいただけるとうれしいです。

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