サルでもとれるカンタンカメラ
カメラのメーカーA社は、誰でも撮れるという企画のカメラを開発し、完成させました。被写体にむかってシャッターを押すだけで、どこでも、誰でも、何でもきれいに撮れます。A社の宣伝部は何とか効果的な広告をと考えました。
サルに写真を撮らせて、「サルでもとれるカンタンカメラ。新発売。」と売り出しました。雑誌などでも、究極の普及型カメラとして絶賛されました。
Tさんは、テレビの宣伝をみて欲しくなり、早速カメラ屋にいきました。
「A社のAEF-1置いていますか」。
「ああ、あのサルでもバカでもとれるっていうカンタンカメラだね。奥にあるから、ちょっと待って」。
店員の大きな声の返事と周りの人からの注目に、玉野さんは恥ずかしくなってしまい、カメラを待たずに店から飛び出してしまいました。
実話か作り話かは定かではありませんが、なぜか記憶に残っている小話です。
この話には、文明の目指す方向と、それに抵抗しようとする人間の姿が表されています。「サルでもとれる」では、誇り高き人間の尊厳が傷つけられる思いがしたのでしょう。一方で、簡便さと安易さを求めながら、一方で、自分は他人(他の動物)とは違うことを主張したい人間がいます。
さて、医療の世界ではどうでしょうか。若い医師の間では、医療面接はおろそかに、身体所見もそこそこに、もっぱら検査器械に頼り、広範囲をカバーする検査を組み、ひっかかれば対処するという姿勢がみられます。医師による主体的な判断や思考は空洞化しています。
入院患者の現病歴は、外来カルテと入院時の看護婦の記録だけをみて、それ以上の情報は付け加えず(したがって、患者から話を聞くこともなく)、チョコチョコと書いてしまう要領のよさ。発熱の患者には、広域の抗生剤を出して一安心。
外来で腹痛とあれば、採血、検尿、検便、上部内視鏡、超音波の検査をルーチンとして組み、その結果が出るまで(つまり1週間後の次の外来までは)薬を出しません。腹痛のために来たのになぜ出さないのかと問うと、まだ診断が確定していないからと答えます。なるほど。内視鏡で胃潰瘍のあることを確かめ、それからH2ブロッカーを出すことならサルでもできます。(チョッとだけオバーですが、小学生ならできます)。
2ヶ月間に5kgの体重減少がある入院患者には、精査のためCTスキャンをやりますといいます。「どのような病態を考えている?」の問いに返答はありません。「とにかく、全身の癌の検索をやってみます。」「食事の摂取は?」「吸収不良は?」「糖尿病は?」「甲状腺は?」「感染症は?」と尋ねても、沈黙・・・・。一体何を考えて医療をやっているのやら。はては、CTをやっても、見るのは放射線医のコメントだけで、フィルムを見ることはありません。これではもう、サル以下かね。(言い過ぎですよ。)
検査はできるだけ少なく、しかも疾患を見落とさず、正確な診断をすることが理想であると思います。ところが、医療機器に頼り、自分では何も感じず考えずに済ませてしまうのが今風のやりかた。名人芸をなくすのが文明の進歩であり、医師は鈍感になれ、考えるなと強いられているかのようです。主体的な決定のないこのような医療に、医師は喜びや楽しみを見出せるのでしょうか。
「誇り高き医師よ、サルでもできる医療から脱皮しようよ。」
「肝臓病教室のすすめ」 より
サルに写真を撮らせて、「サルでもとれるカンタンカメラ。新発売。」と売り出しました。雑誌などでも、究極の普及型カメラとして絶賛されました。
Tさんは、テレビの宣伝をみて欲しくなり、早速カメラ屋にいきました。
「A社のAEF-1置いていますか」。
「ああ、あのサルでもバカでもとれるっていうカンタンカメラだね。奥にあるから、ちょっと待って」。
店員の大きな声の返事と周りの人からの注目に、玉野さんは恥ずかしくなってしまい、カメラを待たずに店から飛び出してしまいました。
実話か作り話かは定かではありませんが、なぜか記憶に残っている小話です。
この話には、文明の目指す方向と、それに抵抗しようとする人間の姿が表されています。「サルでもとれる」では、誇り高き人間の尊厳が傷つけられる思いがしたのでしょう。一方で、簡便さと安易さを求めながら、一方で、自分は他人(他の動物)とは違うことを主張したい人間がいます。
さて、医療の世界ではどうでしょうか。若い医師の間では、医療面接はおろそかに、身体所見もそこそこに、もっぱら検査器械に頼り、広範囲をカバーする検査を組み、ひっかかれば対処するという姿勢がみられます。医師による主体的な判断や思考は空洞化しています。
入院患者の現病歴は、外来カルテと入院時の看護婦の記録だけをみて、それ以上の情報は付け加えず(したがって、患者から話を聞くこともなく)、チョコチョコと書いてしまう要領のよさ。発熱の患者には、広域の抗生剤を出して一安心。
外来で腹痛とあれば、採血、検尿、検便、上部内視鏡、超音波の検査をルーチンとして組み、その結果が出るまで(つまり1週間後の次の外来までは)薬を出しません。腹痛のために来たのになぜ出さないのかと問うと、まだ診断が確定していないからと答えます。なるほど。内視鏡で胃潰瘍のあることを確かめ、それからH2ブロッカーを出すことならサルでもできます。(チョッとだけオバーですが、小学生ならできます)。
2ヶ月間に5kgの体重減少がある入院患者には、精査のためCTスキャンをやりますといいます。「どのような病態を考えている?」の問いに返答はありません。「とにかく、全身の癌の検索をやってみます。」「食事の摂取は?」「吸収不良は?」「糖尿病は?」「甲状腺は?」「感染症は?」と尋ねても、沈黙・・・・。一体何を考えて医療をやっているのやら。はては、CTをやっても、見るのは放射線医のコメントだけで、フィルムを見ることはありません。これではもう、サル以下かね。(言い過ぎですよ。)
検査はできるだけ少なく、しかも疾患を見落とさず、正確な診断をすることが理想であると思います。ところが、医療機器に頼り、自分では何も感じず考えずに済ませてしまうのが今風のやりかた。名人芸をなくすのが文明の進歩であり、医師は鈍感になれ、考えるなと強いられているかのようです。主体的な決定のないこのような医療に、医師は喜びや楽しみを見出せるのでしょうか。
「誇り高き医師よ、サルでもできる医療から脱皮しようよ。」
「肝臓病教室のすすめ」 より
この記事へのコメント
私が携わるコンピュータネットワークのセキュリティ対策にも、同じような事例が多々あるのです。
ネットワークには、多種多様な情報が流れ、中には悪意ある行為(通信を混乱させるという観点で)を引き起こすものも、多数含まれます。
直属の上司は、「これを検知する(およびその仕組みを構築する)ことが先決だ。」と主張し、私を含む若手は、「なんのために(何から何を守るのか?)を決定しないにも関わらず、検知するシステムを作る意味は何か?」と、問答を繰り返しています。
まさしく、検査機器主義とでもいいましょうか?
自らが見て、感じて、考えるのではなく、誰かが作ったブラックボックスな検査装置がそう言っているから、という考え方は、マニュアル至上主義の最悪なやり方だと思っています。
確かにこの方が、だれがやっても、低いレベルで同じようにできるのですが。
こんな考え方の人間が、人の上に立ち人を率いる人に相当数増えつつあるのが、工学の世界でも悩ましい話です。
次回の義父の診察時に担当医の顔を見れそうにありません。二科受診していますが、少なくとも一科の診察室にはバナナが置いてあります。
患者が入室前にカルテやCT,MRI、レントゲン、骨シンチ等のチェックを済ませているようでして(好意的にみれば・・)義父が着席するとすぐに次回診察と検査の予約確認となります?霊長類の中では非常に「先見の目」が発達した種族と思われます。無口な義父に代わって
質問し、答えを(バナナではない)もぎ取ってくるのが私の役割です。さしずめ、ジェーンでしょうか?(トラ縞ビキニではありません・・)
医師がサルのままの方が助かりました。
お猿ならバナナを取っても人間の尊厳を踏みにじる言葉を発しなかったでしょう(はぁ~)
宮城県内の農村地で、
こんな看板を見かけたことがあります。
サルにもできる「反省」
「反省」もできない「センセイ」
言い得て妙だな、と思わず唸ってしまいました。
しんぞう先生の「患者の生き方」、
早速取り寄せて、先ほど届きました。
心して! 拝読させて頂きます.....。
サルでもできることだけど、人間だからできるやり方があると思います。
GOROさん、爆笑しちゃいました。涙でそう。
お医者さんのことではないですよ。
政治家のことです。
聡明なしんぞう先生ならおわかりだと思いますが。
「悟れ! -情報の向こうに-」 by GALANT's Cafe from "The Man"
http://blog.goo.ne.jp/g-cafe/e/1befcbf666fa1705479083dd0b50c413
・・・私よりいい音だった。